古くならない料理
昨日は、9月10月の土日祝日限定で開催されている、千葉県御宿町の伊勢海老祭りに行ってきました。
豊洲市場のものと比べてはいけませんが、お値段はかなり控えめ。
足が全てなかったり、ヒゲが短かったりとそういった理由で地元で消費されるエビ達だからです。
どうしても、漁の際にそういう個体になってしまうので仕方ないと思いますが、味は生きているのでほぼ変わりはありません。
そして、直販売で購入して家に帰るまでどんなメニューにしようかと考えて途中の道の駅などで野菜を買って、、、と4品くらい考えていたら、家の直前で娘がお味噌汁が良い!とのリクエスト
仕方なく、殼で作る予定だったバターナッツとのスープは諦め、味噌汁に。
そして、これだけはと思い、マンゴーとアボカドと伊勢海老のサラダ。これは、ドイツ人シェフのお店で下積みしてた頃のメニュー。もう15年も前のもの。
古くならない料理って、なんだか歌と同じような気がして。
新しい物を作る事の延長線上に、サザンの歌のようなレシピが存在するんだと思いながら
やはり、心に残る料理とはものとしてその人それぞれの記憶の中に生き続けるものだと
そんな料理を創り続けていきたいと思いました。
料理の記憶
@kxixdxs @kosukeichikawa_archive
#届きました!
何度も何度も毎回自分に大量のインプットをさせてくれる市川さんの作品
そしてestY の料理はアウトプットを我慢出来なくなって出来上がる
エストワイではレシピを残しません。
それは、新しい料理を生み続けたいからです。
迷ったりわからなくなった時には記憶を辿ります。
レシピは記憶と新しい発想からしか作られていません。
それが毎月変わるメニュー達です。
食材には命があります。
二つとして同じものはありません
一つ一つの材料に向き合わなければ、お客様に伝える物が無い料理になってしまいそうで
頂きます と ごちそうさまでした
の言葉の意味が薄くならないために
料理の記憶
気付けば食材の方から料理を思い出させてもらってるのかもしれない
ご飯の作り方
ご飯を作るって毎日になるととても大変な事
でも、ひとつだけコツがあるとするならば
誰かのために思いを入れられるかどうかだと思います。
それさえあれば、それさえ身につけられたら、作る事は楽しく、苦にはならないと思うのです。
学生の頃の勉強
出来る子達は楽しんでるように見えました。
それは、テストの前日に詰め込む事ではなく日々の努力が返ってくる楽しみに変わるのだと
作る人が思いを込めなければ美味しかったと言われた時その想いの分しか返ってこないのは、
当然だと思います。
楽しむ為には、やはり努力を楽しむしかないですね。
鬼海さん🌹
鬼海さんの温かい言葉に自分の信じたい道に勇気をもらえた。
世の中の流れや人々がどうであれともそれは、、、
人生の生きる意味
自分がここにいる存在意義
それを優しく身をもってインドやトルコに足を運んで作品として表現され
また、気づかせてくれる写真
かっこ悪いって思てた事は本当にかっこ悪いのか
実はそっちの方がカッコいいんだって
自分を信じる勇気を頂きました。
沢山経験する事が楽しめる人になれる
昨夜はサンセール
夏の暑い日にはピッタリなソービニヨンブラン
暑い時に食べたくなるものがあるのと同じように暑い時に飲みたくなるワイン
色々な事を楽しむためには、そういった経験があるかないかで楽しめるかどうかになる
例えば、大人は美味しいと感じるものも初めて食べる子供はわからないという感情が正解だと思います。
しかし大人は初めて食べる物でも、美味しいと感じられます。
それは、それに似たものの味と比べる事が出来るからです。
特に沢山食べた機会の多い物に対しては、よりはっきりと見えてくるものなんじゃないでしょうか。
花火を見ながらビール
これは、ビール好きには容易に想像できる美味しさです。
その銘柄が、初めて飲むビールだった時どのビールが一番合うか?という感情になるんだと思います。
それも、その人の経験の中で。
アート作品も、美術館や個展に足を運んで回数を重ねれば重ねる程、作品と会話を楽しめるようになるんだと思います。
料理はガラクタ
これもまたガラクタです。
自分が楽しいからこそ生まれた料理
我楽多って漢字を知ったら、ガラクタって素晴らしい言葉だと
作る人間がその料理の味を決めるなら、美味しい料理は全て共通してガラクタであるはずなんじゃないかと思うのです。
美味しくて、綺麗で、何かストーリーがあったり、込められた意味があったり、誰かへの敬意だったり
意図として作られた料理は作った人の我楽多なはず。
作った本人がその料理に気持ちが入ってるからこそ、その料理が作り手を離れ一皿として食べる人が向き合う価値がある。
高級なお寿司だから一口に集中するのか、それとも、その背景にその一貫に込められた背景を見たくて目を閉じて食べるのか、いろいろと理由は人それぞれで間違いもなく正解もないけれども、
作っている人に気持ちがなければ、火の無い所に煙は立たないと思うのです。
料理は作っている時は作っている人の物
食べる人の前に置かれた瞬間に、食べる人の物になる
その切り替わる一瞬で死んでしまって欲しくないから
我楽多料理には気持ちが宿っているんです。
古語による芸術的表現
物という言葉が古語では何を示すか、ご存知の方少ないと思います。
物語 物思い 物悲しい 物凄い などといった表現はよく聞きますが、その物って何かというと
古語基礎語辞典 によると
人の力ではどうしようも出来ない事 、力、
とあり、自然とそうなってしまうということだそうです。
芸術的なものには物としての魂に似たものが存在する事を意味していると思うのです。
例えば、歌を聴く時
その作った人の歌を聴きたくて聴くことは少ないと思います。
その曲が一人歩きを始めて聞いてる人の物になったからだ、ということです。
もうすでに、その時点で、作った人と曲は離れた存在になっています。
曲を聴く時、作った人の事は頭の中に浮かんでこないですよね。
料理は、食べ物である事が前提なので芸術として捉える事の前に空腹を満たすものではあるんですが、
ですが、芸術の定義が人を感動させる、人の心を動かす物ならば、料理芸術は存在すると思うのです。
そんな物として一人歩きをする、出来る一皿を創り続けたいと思っています。
どんな風に感じてもらいたいかは、人それぞれで自由に感じてもらえればいいと思います。
ただ、何かを感じて欲しいと
毎月、変わるその月毎のメニューにはそんな気持ちを込めて、自分の想像した料理を表現するためにスタッフたちが試作を繰り返し完成させています。